自分の書きたいもの、おもしろいと思うものを描くうえで、何も事情を知らない他者に理解してもらうには、どのような作業をすればいいのかを工夫することが「表現するということ」であるという考え方を前提に、今日はお話したいと思います。
プログラミング部門のみなさんは、少し性格の違う話だと思ってしまうかもしれません。しかし、自分が考えたものを他者に見せるということは、例えば論文や作文を書くといったように、日常のいろいろなことに当てはまると思いますので、それに置き換えて話を聞いてみてください。
今回のコンペの作品テーマでもあった「ロボット」というモチーフでは、私も、まとまった作品を作ってきました。そのロボットシリーズで私がやりたかったことは次の3つです。1】ある部分をつけたりとったりしながら、コンピュータの早いシュミレーション力を活かして、そこで見えてきた面白い形を残し、それを膨らませて描写するという描き方です。これはPC+人間という形でしかできない表現プロセスで、人の脳みそだけでは決してたどりつけない部分だと確信しています。2】私はグラフィック・デザイン出身なので、わたし自身の記憶のなかにある視覚体験、特に子供の頃いつも流れていたTVアニメーションで受け継がれてきた「ロボット・グラフィズム」の魅力に対する、大人になった自分のデザイン的な再発見をあらためて見せてみたかった。3】そのため、これらを一つのまとまりのある作品として成立させて見てもらうために「現時点で最も新しい『コンピュータ』という表現ツール」を使いながら、それをわざと16C〜18C頃のヨーロッパの手彩色図鑑のようなフォーマットに載せた、ピカピカではない古めかしい図柄に定着し直して、あたかも「仮想されたずっと先の未来から、またまたずっと昔の、レトロなロボッ ト図鑑を眺める」というような、鑑賞のおもてなし舞台装置を用意した。・・ということです。
つまり、自分がこれをしたいという場合、他者がどう見ようがよくできていればみんな見てくれるはずだというおごりをまず疑うことが大事です。それが個人的な発表であれ、仕事であれ、作られた作品は「それを見る誰か」が存在して、初めて「作品」なのですから。その点で、「表現」ということを考える時、表現は例えば、人と話をする時に自分の話を聞いてもらうために使う神経、心づかいといったものに似ていませんか?「表現するということ」は、どんな話し方、間合いの置き方、魅力の付け方で人に話せば理解してもらえるか、喜んでもらえるかというところに「その作品を作る時」と区別なく、同等な自分の持つエネルギーを注ぐことで、はじめて完結するのだと思うのです。
だれでも作品を作る時というのは、主観的になり、あまり冷静になれません。「表現をできる人」は、自分の作品から離れて他者の視線に立ってその作品 を繰り返し見直すことができる人だと思います。こういうことができる人は、みんなが喜ぶいい表現をすることができ、そこにみんなが集まってくるのではないでしょうか。
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